資本主義はオワコン – The End of the Capitalism –

一言物申したい

資本主義はもう限界なんじゃ…?

こにんちわ。クラッシャーでございます。

なんかもう、あれだね、僕たぶんもうポケモンマスターになったかもしれません。

というのも、ここまで無課金でやってきたのに、図鑑は219/226で残り7枚、5連勝新イベントは開始1時間でクリア、野良のトレーナーたちとはあえて勝ちづらいデッキを使ってのハンデ戦を楽しんでいる状況だからです。

そして、ポケポケをやり過ぎて、生活のいたるところでポケポケ脳になっている自分がいたんですよね。

時計の針が止まっていたら「あ、エネ足りてない」

バスケの試合で負けたら「相手のシュートちょっと上振れ過ぎ、カスミのコインかよ」

イーロン・マスクの30兆円の資産を見て「使ってるカードが強くてしかも手札運良かったらそりゃ勝てるわな」

とまあこのような有様です。

無課金でexなしのゴローニャデッキ使って先行で手札運悪かったらそりゃ毎試合相当ハードな戦いになるに決まってんじゃん。そのようなことが現実世界でもバリバリに起こってはいるけど、それは自己責任ってことで片付けられちゃっていることが実は多いんだよね。

結局ポケポケも人生も運ゲーやわな。

ただ、だからこそ持ってるカードで常に最善手を選択していく、人生においては自分にとっての最大限の幸福を追求していく、やることは両方とも以外にシンプルなんや。

そして運だからこそたまにとんでもない神試合が生まれて、「あそこからようまくったなぁ」が面白くてついやめられないんですよね。

というわけで、今回はようやく「資本主義はオワコン」を書いていきたいと思いまっする!

みなさん日々の生活は苦しいですか?それとも全然余裕でしょうか?

毎日、仕事、家事、育児、勉強、または税金や家のローンの支払いなどに追われて、身も心も息つく暇がないと感じている方も多いんじゃないでしょうか?

「なんか生きづらいなあ」という感覚。

これはあなたのせいではありません。

それはそのような「社会」にあなたが生まれてきたせいです。

まあ、多くの人が、今まで説明してきたような「ロゴスの檻」の中が世界の全てだと思い込まされてきたので、そのように感じるのは当然です。

この社会ができたのは自然の後です。

自然とともに何十万年も過ごしてきた人類にとって、人類学的にはごく最近できたばかりのこの社会が居心地のいいものであるはずがありません。

しかも、安心便利快適なこの社会に適応し過ぎて、今の社会ではちょっとしたことでも我慢できなかったり、自分とは違う他人を受け入れられなかったり、うまくいかないことに対してすぐに怒り出すような寛容さのない人も増えました。

ポケポケでいう投了できずに切断するようなしょうもないやつのことです。

つまり、言葉・法・損得の愛のないロゴスの世界にとらわれ過ぎているだけでなく、安心便利快適な社会でノイズ耐性も損なわれてきてしまったので、余計にこの世界が生きづらく感じてしまうのです。

そんな社会を形作っているものの一つが資本主義です。

資本主義
資本主義とは、個人が自由に土地やお金・道具などの資本を持ち、商売できる仕組みのこと。 個人が利潤を求めて自由にお金を稼げる点や、自由競争を通じて国の経済が発展しやすい点は資本主義のメリットとして挙げられる。 一方、不況時に失業が増える点、貧富の差が拡大しやすい点などが資本主義の課題とされる。
とまあこういう価値観が一般的になってる社会が資本主義社会です。
「資本論」を書いたカール・マルクスの言葉を借りれば、資本主義社会とは “世界の「富」が「商品の巨大な集まり」として現れる社会” です。これについては後述します。
お金ってのは無限の情報です。
これも人間の頭で考えて作った社会システムの一つなので、これに縛られ過ぎても人間は脳化するんじゃないのかな?
宮台言葉でいう「損得マシーン」になるって感じですかね。
ちなみに今回のブログを書くにあたって参考にした本は、斎藤幸平さんの「ゼロからの『資本論』」です。面白いので気になる人はぜひ読んでみてください。(もし貸して欲しい人がいたらご連絡ください)
それではなぜ資本主義はオワコンなのかを早速説明していきたいと思いまっする!
それではみなさん行きますよ、資本主義を、、、クラッシュクラッシュ!!

なぜオワコンなのか?

① ケンカになるから

まず、私KAZUMACHIが子供に英語を1時間教えて1000円もらいました。そしてKAZUMACHIはその1000円でラーメンを一杯食べました。

つまりそれは「英語1時間教える=ラーメン1杯」ってこと。

…。

おかしいよね?

英語1時間教えるって=ラーメン一杯じゃないからね。

数学でいう「a = b」みたいなことで、じゃあ「a」いらねぇじゃんっていう。文系の中学生なんかはこの辺で拒否反応が出るみたいですね。(養老孟司談)

だって「a」と「b」は違うからね。感覚的におかしいもんね。わからんではないよ。

脳化した社会では物事が「同じ」になっていくと、以前このブログで話しましたよね。

「まあまあ a = b でいいじゃねえか。細かいことは気にするなよ」的な感じです。

「あいつはなんで頑張らないんだ?もっと努力したらいいのに…」とか「何歳までにこうなっていなきゃやばい」とか、以上のように数学とかだけならいいんですけど、この感覚が行き過ぎるとみんなと「違う」ことをおかしいと思ってしまう。

なんでもかんでもイコールにする癖がついちゃうって感じですかね。

これも脳化した人間の感覚の一つだと思います。そして「違う」ことへの不安から、必死で周りと「同じ」になろうとしたり、「普通」であろうとする。まあ気持ちはよくわかります。僕もそうだったですし、いまでもそう思うこともあります。

まあ何が言いたいのかというと、つまりは “お金による「モノの交換」とは、世界を「同じ」にしていくことにつながる” ってことです。

お金があれば何かを手に入れることは容易になり、それによって人々の生活は便利で豊かになった反面、現在はそれが行き過ぎてだれかが世界の富のかなりを独占するようになりました。

そして、それは「格差社会」という名前で人々に知られています。

つまり、資本主義社会ではお金を稼ぐ能力の高いやつが、地球の豊かな資源 =「富」の大部分を独占し占有することを正当化できます。

でもさ、地球ってそもそも誰のもんでもないよね?

資本主義社会自体が、15〜17世紀ごろのイギリスで大地主がみんなの農地を不当に奪ったところから始まったのでね。そうして奪った土地を羊の放牧地として「商品」を生み出し、農地から追い出された人々は「労働力」として工場で働くしかなくなりました。

このように、みんなの富いわゆる「コモン」を囲い込んで、それを商品として「労働力」を対価に人々に売りつけたというのが資本主義の始まりです。(以前説明した「本源的蓄積」のことです。)

その後この様式が全世界に広がっていきました。

先述した “世界の「富」が「商品の巨大な集まり」として現れる社会” とはまさにこのことです。

なので、本来得られたはずの資源を奪われた人々が怒って、それを争って喧嘩や紛争、さらには犯罪行為などにまでも発展するのは当然です。

つまり、資本主義による「富」の偏在によって争いが生まれていると言えます。

② 仕事の尊厳が奪われるから

現在は長時間・低賃金の傾向がある「使用価値」を生み出すエッセンシャルワーカーたちが蔑ろにされ、一部の人間たちが楽しくやりがいのある仕事を独占しています。しかもそういった仕事は「価値」を生み出す力が高いため高時給の傾向があります。

「使用価値」というのは人間の欲求を満たしたり、実際に役に立つ性質(有用性)のことです。水や空気などはまさに使用価値そのものですし、ごみ収集などは生活に必須の「使用価値」が非常に高い仕事です。一方で「価値」とは金銭的な値打ちは高いけど、生きていくためにはそれほど必要とはされない、またマルクスの言葉を借りれば「まぼろしのような」性質のことです。なので、ダイヤモンドなどの商品は「価値」は高いけど「使用価値」は低いと言うことができます。

日本だと女性に押し付けられがちな家事や育児などのケア労働も「使用価値」の高い仕事です。

しかし、資本主義社会は「使用価値」よりも「価値」を重んじる社会なので、稼いだ額=社会への貢献度といった価値観を植え付けられて、それに苦しむ人もでてきます。

使用価値の高い仕事というのはだれか一部の人に押し付けるのではなく、みんなでやるべき仕事なのです。

これがワークシェアリングという概念で、後述の資本主義社会を超えた社会「脱成長コミュニズム」でも必要になってくる考え方です。

③ 一部の資本家に大勢が1000%の確率で搾取されるから

“お金があれば何かを手に入れることは容易になり、それによって人々の生活は便利で豊かになった”

と先ほど書きましたが、これは逆をいうと自給自足の力を奪われた多くの現代人たちは、生きるためにお金というシステムに頼るしかなく、お金を稼ぎ続けなければならなくなったとも言えます。

つまり資本主義のおかげで生活は便利で豊かになったけど、ある意味では貧しくもなったとも言えます。

先ほども言った通り、コモンを奪われた多くの人々は自分の「労働力」を売るしかないので、自発的に会社の利益のために奮闘して、時には命をかけ過ぎて過労死する人も出てきます。

僕はこれを「経営者目線の社畜化」と呼んでいます。

現代人にとって資本主義社会は生まれた時からあるので、人々はこれが世界の当たり前なんだと思い、その生き方を内在化していきます。

このようにして人々の「奴隷力」は知らず知らずのうちに上がっていくのです。

特に日本人はキョロ目・ヒラ目が多いので、「奴隷力」の上昇にブーストがかかってるんじゃないのかなと思いなすね。

そして、資本主義社会の目的は自分の持つ資本を増やして、人よりも多くの地球の資源=「富」を得ることです。

しかし、誰かの「労働力」を買い「労働」をさせて何かを生産したところで、生産した商品と同じだけの価値のお金としか交換できなかったら、資本は増えずにただのプラマイゼロです。

つまり、資本を増やすには生産した商品以上の価値を絶対にだれかから搾取する必要が出てくるのです。

その第一の搾取の対象となるのが「労働者」です。

例えばあなたが8時間働いて16000円分の価値を生み出したとしても、資本家は自らの資本を増やすためにその労働の対価としてあなたに16000円は渡しません。渡してもせいぜい10000円くらいでしょうか。

この資本家が搾取した6000円を「剰余価値」と言います。


出典:「ゼロからの『資本論』」

上の図の通り、長時間労働がなくならない理由もこれです。

1日8時間働いてもらうよりも、1日12時間働いてもらった方が「剰余価値」が増えて資本が増えるからです。この時に増えた剰余価値を特に「絶対的剰余価値」と言います。

絶対的ということは相対的があります。それがこちらです。


出典:「ゼロからの『資本論』」

単純に労働時間は一定で給料を減らすだけの簡単なお仕事。

このようにして、資本家や企業による搾取が進んだ結果、日本ではこのようなことになりました。


出典:「ゼロからの『資本論』」

出典:時事通信「企業の内部留保、600兆円 12年連続で過去最高―投資や人件費、活用に課題・23年度末」

つまり、日本には「奴隷力」高めの人間が多いということです。

でももし逆に、あなたが10000円の対価に対して6000円の不足価値しか生み出していないんだとしたら、あなたは「主人力」が高く、もはや搾取する側で会社に養ってもらってる状態ですね。おめでとうございます!

④ 人間のポテンシャルが奪われるから

というわけで、このようにあなたが資本家や経営者と「労働力」を対価に「労働」の契約を結んだ後で、彼らはみなさんの「労働力」をどう使おうが自由です。

そして「労働力」の搾取は「時間」の搾取でもあります。

最近は東京都が週休3日制の導入を始めたりなど、労働時間削減の傾向がまた徐々に強まってきている感はありますが、資本増殖のマネーゲームのために、資本主義社会では労働時間はなかなか減らせない傾向にあります。

さらにこのゲームはカンストのないマリオカートみたいなもんで、一生終わらず、全クリはありません。数字が無限に増えて、ただマリオカートが上手くなるだけです。

つまり、カンストがないならマリオカートのプレイ時間自体を減らさないと、他にやりたい別のゲームはできないってことです。意識的にみんなで労働時間を減らす努力をするしか、当然仕事以外の時間が増えることはないですから。

そして、この「時間」の搾取は「可能性の喪失」とも取れます。

本当だったら、その余った余暇の時間を利用して、だれかがすんごい面白い何かを作ったり、隠れていた新たな才能を開花させて、社会に何かとんでもない恩恵をもたらしていたかもしれません。

しかも、それが全世界規模で起きていたはずなので、今頃世界は働かないことで逆にもっと豊かな社会になっていた可能性があります。(ちなみに僕はこれを「J.Kローリング効果」と呼んでいます。)

だって使用価値以外のお金のための労働って、結構意味のないものも普通に全然あると思うのでね。不必要に消費を煽る広告や、過剰なモデルチェンジなどの労働はむしろ「マイナスワーク」とさえ言えます。

人間の「労働力」や個人の「時間」も地球の大切な「富」の一部です。

なので「せっかくの休日が…」というのは、あなたの時間さえも「囲い込まれている」ということ。休日の希少性が高くなって、失敗できないとつい考えてしまうのです。

⑤ 地球は有限、お金は無限

最後は地球は有限で、お金は無限だからです。

経済成長って言ったって、どうしたってそれにも限界があります。なぜなら地球は有限だから。

そして、その「無限の経済成長」のための代償が地球温暖化や気候変動です。

労働は「人間と自然との物質代謝」で、つまりは人間と自然との関わり合いです。持続不可能な自然への向き合い方は改めなければ、現代人だけでなく、未来の人々にも悪影響が及びます。

地球温暖化と気候変動に関しては、「地球温暖化と気候変動、今後起こりうる最悪のシナリオとは? Global Warming & Climate Change」という過去ブログで詳しく書いていますので、気になる人はぜひ読んでみてください。

じゃあどうすればいいのか?

脱成長コミュニズム

まあとはいえ、資本主義システム自体は確かに便利ですし、なくすことは不可能だと思うので、今後も残り続けることは残り続けるでしょう。

しかし、今は少し行き過ぎた。

なので、この社会全体が少し違う方向へと舵を切る必要があります。

ではその舵を切る先の社会とは?

それがマルクスや斎藤さんが提唱している「脱成長コミュニズム」の社会です。

「脱成長コミュニズム」とは、簡単にいうと今までの貨幣中心の生活から少し離れて、貨幣に依存しないもののやりとりができる領域を増やしながら、地球の豊富な富をみんなで共同で維持管理していく社会のことです。

みんなの共有財産である「コモン」を基にした社会なので「コミュニズム」、そして地球環境を破壊するような無限の経済成長はやめて、必要以上にものを作りすぎない生活スタイルを目指すので「脱成長」、2つ合わせて「脱成長コミュニズム」というわけです。

お金に依存しないって無理じゃね?と思うかもしれませんが、実はもう私たちは、友達の引越しを手伝ったり、同僚を助けたり、甥っ子姪っ子たちの世話をしたりなど、別にお金を使わなくても助け合うような生活を普段からしていますよね。

その意味では我々はすでに「コミュニスト」なんです。

そして「脱成長コミュニズム」は、このような領域をもうちょっと増やしていきませんか?という感じなので、教育や、医療、移動手段などは全部無償にしたりとかも目指していきます。

アメリカは世界最大の経済大国で医療資源も豊富な国ですが、その医療資源さえも囲い込まれているので、お金がなくて医者にかかれない人がたくさんいます。それだけが理由ではないですが、それでもアメリカの平均寿命はコスタリカ以下です。

このような「富」の偏在は「支配」を生みます。資本家が労働者から「搾取」している構図からもそれはわかると思います。あとは日本が経済成長できない原因である「既得権益者」たちも、占有している富を人々にシェアするつもりはなく、それによって多くの人々よりも常に有利な立場をとろうとするで、これも一つの「支配」の形と言えるでしょう。

一方で「コミュニズム」によるコモンのシェアは人々に「平等」をもたらします。

それは、コモンの共同管理において「労働者協同組合」などの「アソシエーション」が必要になってくるからです。

その地域地域ごとで、様々な産業の労働者協同組合を作り、みんなが組合の共同経営者として出資し合ってそれを管理し、何をどれくらい生産するのかをみんなで主体的に決めていく。

そうすることで、生産に必要な知識や生産手段、生産物が「コモン」となり、地域のニーズや「使用価値」を重視したモノの生産ができるようになります。また、生産効率のための画一的な単純作業を一部の人々だけに押し付けるようなこともなくなるので、そこからは「働きがい」なども生まれてきます。

あとは、「価値」主体の経済活動の抑制も目指していくので、余計な仕事は無くして、その余った時間で地域のエッセンシャルワークをみんなでワークシェアリングすることによって、仕事の負担も減らしていきます。

このように、みんなで共有すべき地球の「富」=「コモン」が「商品」として現れないように、みんなで共同で管理しコントロールしていくことが「コミュニズム」の基本的な考え方になります。

そして資本主義によって解体されてきた社会の「富」を取り戻すために、もうすでに世界中では様々な取り組みや戦いが行われています。

例えばオランダのアムステルダム市では、グローバルサウスからカカオや、スマホの製造に必要なコルタン鉱石などの資源の搾取をやめ、環境破壊を透明化し是正していかなければならないとフェンケ・ハルセマ市長は述べ、さらに労働者たちが安い商品を買わなければいけない格差構造を抜本的に変えるための政策に取り組んでいます。

また、ドイツのベルリンでも2021年9月に、家賃高騰に反対する住民たちが中心となった住民投票が行われ、3000戸以上のアパートを所有する不動産会社に対して、州がその一部を買い上げて公営住宅にする提案が賛成多数となりました。

これには残念ながら法的拘束力がないのですが、州政府はこのような提案を検討せざるを得なくなりました。

このように「コモンを取り戻す戦い」は世界各地でもうすでに起き始めているのです。

ソ連の社会主義は国家資本主義

ちなみに、コミュニズムというと、ソ連や中国などの社会主義や共産主義国家を思い浮かべる方もいると思いますが、マルクスや斎藤さんが言うコミュニズムの概念とは大きく異なります。

というのも、資本主義国家の代替として現れた社会主義国家ですが、これは結局のところ、みんなのコモンを資本家に代わって「国家」や「官僚」が管理し、様々な能力を持つ人々に対して画一的に生産をさせて、剰余価値を搾取していただけだったので、マルクス経済学者の大谷禎之介はソ連を「国家資本主義」と呼んでいます。

ですので、「脱成長コミュニズム」との違いをあえて説明するなら、そのような違いがあります。

ソーシャルキャピタル

また、先日「ラストマイル」という満島ひかり主演の映画を見ましたが、これはまさに資本主義社会によって人々が、「人とのつながりではなく、お金というシステムばかりに頼ったせいで生まれた歪」に飲み込まれていく様を描いた作品だったので、とても面白かったです。

内容を簡単に説明すると、アメリカに本社を持つ世界最大の大手ショッピングサイト「デイリーファスト」(通称デリファス)の日本支社から配送された商品が顧客のもとで爆発しました。その後もデリファスからの荷物が顧客のもとで爆発する事件が相次ぎ、この物流センターのセンター長だった満島ひかり演じる舟渡エレナは、警察に協力し事件解決を目指しながらも物流は止めないようにと本社から命じられ、その無謀な挑戦のために奮闘するといった内容です。

映画の中ではアマゾンと物流業、宅配業界の闇もメインテーマとして語られています。

昔は宅配業者が荷物を届けに行った先が不在だったら、再配達なんかしないで普通に近所の人に預けていたみたいですからね。

こういう営みを「ソーシャルキャピタル」といって、地域共同体などでの人とのつながりを駆使することで、社会的負荷をお金を使わずに減らすことができます。

アマゾンなどの注文してから最短で翌日には届くというサービスは明らかにやりすぎです。その分誰かが割を食っています。本来ならばそんなサービスなんかには加担せずに、求められても全て拒否するという姿勢が必要ですが、多くの人は生活がかかっているので簡単には拒否できません。

ただ映画ではみんなでまとまってそれと戦っていたので、現実でもみんなでやれたらいいですね。

各人はその能力に応じて、そしてその必要に応じて

というわけで、以上が資本主義はオワコンだと思う理由と、それに代わる社会についての概要です。

「各人はその能力に応じて、そしてその必要に応じて」

これはマルクスが「資本論」の中で唱えた有名な一節です。

意味は、「各人はその能力に応じて人々に与え、必要に応じて人々から受け取ることができる」です。

資本主義社会では、モノの等価交換が原則で、世界を「同じ」にしていきますが、本当は世界はそんなに単純ではなく、何でもかんでもイコールで結ぶことはできないはずです。

人間の個性や、それぞれが持つ能力もそうです。どの能力にいくらの金銭的価値があるかなんて決めること自体がもうそもそも無茶苦茶ですからね。

斎藤さんも本の中で、「いまの社会のように、それぞれの人間が持つ個性をこんなにも大きな経済格差につなげる必要性はどこにもない」と言っていて、本当にその通りだなと思います。

ただ単純に、それぞれが持つ能力によって人々に何かを与えて、逆に必要に応じてみんなからも何かを貰えばいい。

このような「贈与」や「富のシェア」によって成り立つ社会が「脱成長コミュニズム」です。

というわけで、今回は以上です!

 

おわり

 

 

 

 

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