【奴隷力】~『自発的隷従論』を読んで~ Discourse on Voluntary Servitude

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なぜ我々は経営者目線の社畜になるのか?

こんちわ。

先日、転職サイトのリクルートに登録して、エージェントの人に転職の相談をしたのですが、「転職はできたらしたいという感じなので、そんなに急いではないです」と言ったら、「なるほど。わかりました。ただ、年齢が30歳なのでギリギリなんですよね。31歳になると書類で落とされることが増えてしまうので。」と言われて、「え!なんで!?30と31ってもう別にどっちでもいいじゃん!一緒やん!それで落とすやつって脳化してんじゃね?」と、心では思いましたが、何も言わなかったKAZUMACHIでございます。

とまあ、こんな感じで一応ちゃんと就職活動は始めています。(※余談ですが、僕は職歴が地味に7社もあるので、本当の意味での「転職のプロ」になりつつあるのかもしれない…?)

果たして、KAZUMACHIはがっつり就職をすることができるのか?

次回、クラッシャー KAZUMACHI、CHAPTOR 3「がっつり就職編」!

ご期待ください。(渡哲也風の声質)

はい、と言うわけでございまして、今回は、以前少しだけ紹介した、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの「自発的隷従論」について紹介しながら、僕がこれからどっかで書こうと思っていた本のテーマでありタイトルの「なぜ我々は経営者目線の社畜になるのか?(以前の仮タイトル:奴隷力)」ということについても少しだけ一緒に考えていきたいと思います。

早速本題に入る前に、「自発的隷従論」について一応簡単に紹介すると、これは1530年にフランスで生まれたエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(裁判官であり、人文主義者)が16才〜18才のころに書いた小論文で、内容は「いつの世にも圧政がはびこり、たった1人の圧政者に対してでさえ、人々が隷従に甘んじてしまうのはなぜなのか」という、支配ー被支配という社会関係に潜む本質的構造を考察している古典です。

はい。というわけで、それでは行きましょう。

経営者目線の社畜を、、、クラッシュクラッシュッッ!

奴隷力が上がる仕組み

① 習慣

なぜたった1人の圧政者に、何十人、何百人どころではなく、何万、何十万人もの人々が、従わなきゃいいのに従うようになってしまうのか?

ボエシが言うには、それは「生まれたときからそれが当たり前だった」からです。

つまりは「習慣」によって、人々はたった1人の圧政者であっても自ら従うようになってしまうということです。

“たった1人による圧政は、庶民たちが自ら「自発的に」それに従い支えない限りにおいては機能し得ない。”

このボエシの鋭い視点が、1546年ごろに書かれた「自発的隷従論」が現在に至るまでに、多くの哲学者や社会学者を始め、人々に著名な古典として読まれてきた理由です。

かくいう僕自身もやはりこのタイトルを見た時には、何かかなり惹きつけられるものを感じましたからね。

ボエシはさらに、人間は生得的に「自由」であると、そしてそれが人間の自然な姿であるはずだとも言っています。

普通の動物たちは、例えば鳥が鳥かごなどに囚われたりした時には、初めはなんとしてでもその不自由さから抜け出そうと必死になります。

象なんかは、自らの牙を折って、それを人間に差し出す代わりに見逃してくれと言わんばかりの行動を取ってまで自由を欲すると。

ではなぜ、人間はそうではないのか。

自ら率先して自由を手放し、自分のその不幸すらも感じ取れず、律儀に耐えるべきではない横暴や苦悩に対して鈍感になるのは、習慣や、それを推し進める「教育」などによって、人間の本性が捻じ曲げられたから。

それがボエシが出した答えです。

つまり昔から、脳化や共同幻想などは起こってきていて、人間の頭で考えた”現実”が現実になることが繰り返されてきたわけです。

この「自発的隷従論」のように、古典や昔の偉人たちの言葉がいまにも通用してしまうのは、歴史がループしているからだとKAZUMACHIは考えています。

「未来は過去。」

これは社会学者の宮台真司が言っていた言葉で、最初聞いたときはよく意味がわからなかったのですが、歴史がループしているという意味で捉えた今では、とてもしっくりくる表現になりました。

「安心便利快適」な社会生活を営んでいると、人間は感覚ではなく、どうしても頭や意識の方を優位に働かせるようになります。

さらには、現代における自由主義的競争社会なんかで生きていたら、その傾向はより強まることになって、余計に、「言葉・法・損得」で縛られた頭の中の世界に閉じ込められることになるんじゃないかなと勝手に思っています。

なので、普段の生活の中に、社会から出て世界を感じられる時間を作らないと、人間は感情的に回復できずに、心が疲弊し続けることになるんだと思います。

② 圧政者の3種類とその戦術

というわけで、奴隷力が上がる、または最初から高い理由は人々の「習慣」によるものということです。

では、ここからは圧政者たちの種類と、彼らが昔からよく使っている庶民の奴隷力を向上させる(悪)知恵をいくつか紹介します。

まずは圧政者の種類ですが、全部で3種類いるとボエシは言っていて、それが

1、選挙により生まれる圧政者

2、戦争後の統治によって生まれる圧政者

3、相続によって生まれる圧政者

以上の3つです。

1は民主的なプロセスによって生まれる圧政者なので、ボエシは3つの中で1番ましだと言いながらも、それは「金輪際その座から降りるまいと考えない限りにおいて」という条件付きのものでした。

うん。なんか思い当たる節があるような。

今で言う、ポジション争いに必死になって自分のことしか考えていない国会議員(政治屋)たちみたいな感じか。

そしてそんな彼らがよく使う戦術が

1、エンタメ

2、饗応きょうおう (酒や食事を出してもてなすこと)

3、称号

4、自己演出

5、宗教心の利用

だそうです。

1のエンタメに関して言うと、例えば、ペルシア王のキュロスが、淫売屋、居酒屋、公共の賭博場を用意したら、今までうるさかった民衆がうまいこと大人しくなったらしいです。

2の饗応によっては、元は自分たちのモノであったとしても、小銭、酒、小麦一袋を与えることによって民衆は「王様バンザイ!」となり、

3の称号と4の自己演出では、位の高い官位に就いたり、怪しげな雰囲気(例:民衆の前へ登場する時はいつも頭に猫を巻いて登場する)などを演出することによって、実際とは違う高尚なイメージを民衆に植え付け従わせようとしたり、

5の宗教心の利用では、大げさな作り話を民衆に信じ込ませ、あたかも圧政者に神秘的な力があるように思わせたりなど、こんなような戦術を駆使して、圧政者たちは民衆の奴隷力向上に努めてきたらしいです。

③ 小圧政者の増殖

最後は、そんなようにして築いてきた圧政を、さらに強固なものにするために取られた基盤のようなシステムを紹介します。

それが「小圧政者」の増殖です。

「小圧政者」とは圧政者の順々なるしもべたちのことです。

ボエシが言うに、歴代のローマ皇帝たちの中には、家来の弓兵に守られるよりも、その自ら従える護衛の弓兵によって殺されるケースの方が多かったらしく、圧政者を本当に守ってきたのは、兵士団などの武力ではなく、たった4人か5人くらいの「小圧政者」たちでした。

まあ、彼らはいわゆるごますりみたいなもんで、自ら圧政者に近づき、その手足となる代わりに、悪徳によって得られたおこぼれをもらい、さらにはこの5人は自らの下にも500人の部下を従え、同じ関係性を構築することによって、その支配関係が鎖のように繋がっていき、最終的にはその繋がりが国全体にまで波及することによって、より強大な圧政のシステムが誕生するといった具合です。

支配が新たな支配を呼ぶ!

経営者目線の社畜化、そして、愛とは…?

と言うわけで、以上が「自発的隷従論」に書かれている主な内容です。

僕が言う経営者目線の社畜が爆誕する理由も、「自発的隷従」のプロセスと一緒で、まずは「習慣」や「教育」によって、社会にマジガチで適応しようとし過ぎてしまった結果か、または、損得勘定から小圧政者的存在になってしまい、自らを経営者などと同一化させるようになって、会社のために命がけで奮闘するような存在になってしまうんだと思います。(まあ、それが別にやりたいことであればなんでも良いんだけど。)

ボエシは、圧政者は相手から奪うことだったり、小圧政者との取引などによって、人々を支配をしようとするので、そこには「友愛」は存在しえず、結局は誰かを愛することも愛されることもないと言っていました。

「友愛とは神聖な名であり、聖なるものである」(ボエシの言葉より)

人々が様々な性質の差があって生まれてくるのは、そこに神が人間同士の間に友愛を育ませるためだと、ボエシの人文学者らしい視点が実はこの本の根底にはあります。

ちなみに、個人的に本の中で好きだったフレーズはこちらです。

「私としては、圧政者とその共謀者に対する格別の罰を、神が来世で用意してくださっていると確信している」(ボエシの言葉より)

なかなか尖った物言いで良いですね。

あとは、圧政者を打ち崩すのには、本当にただ従わないだけで、適当に無視していれば、薪をこれ以上焼べなければ勝手に消える火のように、自然消滅するとも言っていました。

なので、革命などのような、大きな「力」を必要とするようなことを、社会変革のために特別にする必要は本当はないのかもね。

はい。と言うわけで、今回は以上です!

 

おわり。

 

 

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